事業主と労働者、双方の幸せのために~千葉県松戸市の織田社会保険労務士事務所~

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箱根駅伝の思い出

箱根登山鉄道

 私の人生において、箱根駅伝に広告マンとして関わった経験はとても大きく、その後の人生観や人脈につながっています。

 箱根駅伝のテレビ中継化にあたり、人との縁や様々な学びをいただきました。箱根駅伝との出会いを感謝するとともに、私の誇りになっています。

 箱根駅伝は日本のビックイベントの一つで、選手だけではなく、学生、家族、学校関係者を中心に、それを支える数多くの裏方がいることを知って頂きたい。そして、そこにはその人たちの数だけのドラマが生まれています。

 学生のためのものを、商業路線に乗せることを良しとしない意見があることも承知していますが、スポンサー協力により、安全面が確保され、学生たちが安心して競技に集中できている側面もあるのです。

 箱根駅伝は時代とともに形を変えることがあったとしても、連綿とタスキが引き継がれていくことを念じてやみません。

 下記にご紹介する文章は、講演活動等でお話させていただいた際の原稿です。実際には、VTRを観て頂いたり、脱線して裏話に花が咲いたりしますので、ほんの一部ではございますが、少しでも箱根駅伝に関わった人たちの悲喜こもごものエピソードを知って頂きたくご紹介させていただきました。ご笑覧いただければ幸いに存じます。

社会保険労務士 織田 博

知られざるTV制作の現場と放送までの秘話・箱根今昔物語

1.箱根駅伝第1回大会と戦時中唯一行われた幻の第22回大会とは?

 箱根駅伝の誕生は1920年(大正9年)今から94年前になります。それより8年前の1912年のストックホルム五輪にマラソン代表として出場した金栗四三(シゾウ)という人いました。彼は、スタートしてから18キロ地点で途中棄権、失意のまま帰国したことから、この箱根駅伝が誕生したといわれております。

 世界とのスピード、体力の違いをまざまざと見せつけられた金栗は「世界で戦うには、もっと長距離ランナーを育てる必要がある」と痛感し、この金栗の提案から1920年2月14日に早稲田大・慶応大・明治大・東京高等師範(筑波大)4校による第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が行われました。

 当時は「学生の本分は勉強である」とされ、午前中は勉強、午後一時からのスタートとなりました。箱根に入ると昼間でも薄暗い山道を駆け抜けるわけですが、山に入る時間には陽はどっぷり暮れて、あたりは暗くなり、雪道で横転する危険性や山に迷いこんだりすることを防ぐ為、地元の青年団がたいまつを掲げて進路を照らしたと記録に残っています。

 箱根駅伝は第1回目から、走ることすら大変過酷で、危険で険しいマラソンコースであり、このコースを10人の選手が1本の襷を繋いでいくという人間ドラマそのものだったようです。

 その後、戦争が始まるまでの20年間には数々の人間ドラマやエピソードがありました。その中の有名な話の一つに、日本大学の前田喜太平による「警官から駅伝の選手への転身」があります。第2回大会で日比谷周辺を警備していた前田巡査は、目の前を駆け抜けていく学生の走りに魅了され、思わず走り出してしまい、職場放棄で首になったと面白おかしく語られています。本当のところは、自ら退職しその年日大に入学。翌年1月には、日本大学の選手として箱根に出場しました。

 また、前田選手が4年生となって迎えた第6回大会では、こんな珍事件が起きました。前田選手は2区で区間賞を取り、順位も8位から6位に引き上げ次の選手にタスキを渡そうとしたとき中継所に待っていたのは見知らぬ男でありました。なんと、その男はあっけにとられている前田選手からタスキを奪うと猛スピードで駆け抜け、あっという間に4人をごぼう抜き、なんと2位に浮上したのです。しかし、その男は新橋の人力車夫だったことが大会終了後に判明し、日大は違反をしたということで翌年は出場を辞退しています。

 ところで、なぜこの男が人力車夫であるということが判ったかというと、他校の選手を追い抜くとき「あらょっと」と掛け声をかけて追い抜いて行ったというユーモアある話が残されています。

 ところで、箱根のエピソードにはこのような楽しくなる話ばかりではありません。

 特に、箱根駅伝を走った昔の選手に「箱根駅伝で走った時の感想」を聞くと、必ず戦争で箱根駅伝が中断せざるを得なかった6年間(昭和16年~終戦の昭和21年)にたった1回だけ開催された、1943年(昭和18年)の「幻の第22回大会」の話になるそうです。

 1939年(昭和14年)から始まった第2次世界大戦、箱根駅伝は、軍事物資を運ぶ為、東海道が使用できなくなり、翌年の1940年の21回大会をもって中断することが決まっていました。しかし、箱根駅伝をどうにか続けたいと思う学生ランナーたちは、知恵を絞ってどうにか開催にこぎつけました。それはまず、走るコースを、九段の靖国神社から箱根神社の往復に変更し、「精神鍛錬と戦勝祈願」を名目に、軍部から特別の開催許可を得ることができたそうです。

 戦時下、3年ぶりに開かれた大会は「紀元2603年、靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」と名付けられ行われました。しかし、この第22回大会は「軍部主導で行われた」とか「戦争のプロパガンダに利用された」とか言われ、出場した選手も長い間そのことを隠し、また大会も「箱根駅伝」として認められなかったそうです。それでも、この箱根路で、三年ぶりに生きて走れる喜びと、これが最後になるかもしれないという思いが交差する中で、自分の人生の中の1ページとして、この箱根を走りたいと願う参加11校の選手が、競争の結果に関係なく、互いの健闘をたたえ合い、生きて走れる喜びをかみしめていました。

 その年の秋には学徒出陣があり、多くの若い命が、異国の地で、深い海で、広い空で散っていきました。その中には箱根を走った選手もいました。このようなエピソードがある箱根駅伝を「箱根駅伝今昔物語」として制作し、放送することになった訳ですが、本当のところは、放送本番でヘリが飛ばなくなり現地からの中継が途絶えた時の善後策として、又、3区の戸塚から平塚に行く途中のサッポロビールの競合社キリンビールの工場を映さないために当初は制作されたのです。しかし、それから、この「今昔物語」は箱根駅伝の番組放送にはなくてはならない存在になっていくのです。

2.「箱根駅伝今昔物語」とは? できるまでのエピソードの数々。

 この箱根駅伝の放送の中で、人間ドラマ「箱根駅伝今昔物語」の取材・制作を担当した放送作家:鎌田みわ子は、番組開始から15年間で述べ1000人以上の選手を取材し続けたといわれています。当初は戦前の話を聞いてもピンとこなかった彼女でありましたが、インタビューを始めると、今や、地位も名誉もある人たちが突然声をつまらせ涙ぐむのです。それは、懐かしくさわやかな思いでのせいではなく、途中棄権をしてタスキを渡せなかった無念さと自責の念を、今でも引きずっているせいだと言います。

 鎌田はこの取材を繰り返すたびに何十もの苦い涙が心に重くのしかかってくるようになりました「多くの選手がそっと心の底にしまっておいた古傷を自分は、ぐりぐりと、えぐりだしているのかもしれない。もうこんな仕事、やっていられない。又、今日も自分は、一人の選手を泣かせてしまった。もうこんな仕事いやだ!」鎌田はこの仕事の惨忍性を痛感し、自分自身をも責め続け、仕事が手につかなくなっていきました。でも、史上初の2日間生放送の箱根駅伝のスタートはもう真近に迫ってきています。憂い、悩む時間はありません。鎌田は気を取り直してして取材を続けました。

 その中で、鎌田はこの話を取材して自分のこの番組における使命を認識したそうです。

 その一つは、幻の第22回大会に中央大学の選手として第一走者となった村上敏明さんがいました。村上さんは、取材の中で、「靖国神社に参拝の後、大鳥居の前からスタート。この大会を最後に死ぬ覚悟だった」と言っています。

 その後、村上さんは、学徒出陣で特攻隊員として配属されたのですが、出撃待機中に敗戦となり、命を救われたそうです。そして、村上さんは、こうも言いました。

 「その時一緒に走ったチームメイトや参加した11校の選手たちとは、今でも連絡は取っていません。戦死しているとつらいですから・・・」

・・と、そのまま絶句して号泣したそうです。取材した鎌田は、この時代の人たちが、そんな覚悟をしてまで走っていたなんて、選手たちの体に染み込んでいる「箱根」への思い、つらく悲しくも鮮烈に過ぎて行った日々、箱根を走った者たちの話を聞いてそれを伝えることの意味、この仕事の真の意味が分かるようになったと言っています。

 そしてもう一つのエピソードは、
それは、1949年第25回大会に出場した神奈川師範学校(現横浜国大)の今井実さんの話です。

 今井さんは、敗戦直後で、栄養不足だったにもかかわらず、無理に練習を重ねたせいで貧血になり3区の平塚中継所まであと数キロという地点で意識を失い、タスキをつなぐことが出来ずにチームは途中棄権を宣告されました。

 その今井さんに取材の申し込みをしましたが、

「私のせいで、残り9人の汗と涙の中にある、過酷な練習を重ねてきた仲間の努力と希望をめちゃめちゃにしてしまったのです。なんでおめおめとテレビの前に出られましょうか」

・・と、断ってきました。

 だが、この取材の本当の使命を知った鎌田は決してあきらめることなく手紙をだしつづけました。そして、かたくなだった今井さんの心も徐々に和らぎ、取材に応じてくれました。

 回るカメラを前に、今井さんは静かに当時のことを話し始めました。次の者へ、タスキを渡せなかったという途中棄権の出来事は、一生死ぬまでぬぐいきれない自分自身の敗北だと思い、今まで悩み苦しんできました。

 このことは、こんな年になった今でも、心のどこかにあり、引きずっているかもしれませんね。でも、今日この取材で昔の箱根駅伝の自分のことを話すことが出来て、重かった荷物をひとつおろしました。来年の箱根駅伝には、自分が途中棄権したあの3区のあの場所で、頑張って走ってくる若い選手に精一杯「頑張れ、最後まであきらめるな」と心の底から応援したいと思っています。

 今日はありがとうございました。・・・こうしてまたひとつ、人間ドラマ「箱根駅伝今昔物語」のひとつが誕生しました。

 では、ここで箱根駅伝名場面集と涙の人間ドラマと2008年の第84回箱根駅伝「順大・大東文化大・東海大3校、涙の途中棄権」のシーンと第88回大会で中継所でタスキを渡せず無残にも繰り上げスタートとなった神奈川大学のそのシーンもご覧ください。

 このように過酷なまでの自分との戦い、大学の伝統を守ることにかけた青春、1本の襷に込められた先輩たちの熱い思いを繋いでいくという使命感・・・箱根は走る者にとっての、越えなくてはならない人生の剣ヶ峰だったのではないでしょうか。

 そして、ここに、又ひとり箱根駅伝の呪縛に11年ぶりに解放された男の物語があります。この箱根駅伝を途中棄権した神奈川大学の高嶋康二さん。1996年第72回大会で第4区を走り途中棄権、タスキを繋げなかった。この無念さを11年間ずっと引きずってきました。今、高島さんが、その過去を断ち切るために、この4区にたった一人で挑むレースです。その模様を放送したビデオをご覧ください。

3.箱根駅伝第5区山登りにニューヒーロー誕生

~山の神・順大の今井正人を超えた 山の神童・東洋大の柏原竜二の4年間の継走~

 人間ドラマ、それがこの箱根駅伝が高視聴率を上げている最たる理由なのでしょう。そして、人間ドラマは苦しい悲しいドラマだけではありません、こんなヒーローの出現によって、観る者の心をわくわくさせてくれました。第81回大会から5区の山登りで3度の区間賞を取った「山の神」、順天堂大学の今井正人の持つ箱根駅伝の歴史を塗り替えた男の誕生です。東洋大学の「山の神童」柏原竜二の出現です。

 2009年第85回大会で1年生ながら山登りの5区に出場、9位でタスキをもらうと驚異の8人抜きで1位へ、東洋大は出場87度目にして初の往路優勝を勝ち取り、またその翌年の第86回大会では、同じく山登りの5区で7位から6人抜きで往路優勝、第87回大会では、3位でタスキを受け取り首位を行く早稲田との差2分54秒を逆転して優勝。柏原4年生の第88回大会は1位でタスキをもらいこれまた区間賞を取り、往路優勝4年連続という記録達成にも貢献しました。

 第81回大会から3年間、山登り5区の区間賞と最優秀選手賞を獲得した順大の今井正人が卒業した2年後、天才山登りランナー、新たな「山の神」、「山の神童」東洋大柏原竜二の誕生でした。このVTRをご覧ください。

 では、箱根駅伝の人間ドラマ「箱根駅伝今昔物語」はこの辺にして、テレビ番組制作の裏話に入っていきましょう。

4.箱根駅伝最初のテレビ生中継の秘話

~1987年箱根駅伝第63回大会のTV放送の裏側にあったもの~

Ⅰ.日本テレビ箱根駅伝番組制作総合プロジューサー 坂田 信久(当時47歳)
      同       総合ディレクター  田中 晃 (当時30歳)

Ⅱ.1980年代当時のテレビ業界

  • 日本テレビ=読売新聞=スポーツ番組(ボクシング、プロレス中継)
  • TBSテレビ=毎日新聞=ドラマ(金曜日の妻たち、寺内貫太郎一家)
  • フジテレビ=産経新聞=バラエティー番組(ひょうきん族、笑っていいとも)
  • テレビ朝日=朝日新聞=ニュース番組「ニュース23他」
  • テレビ東京=日経新聞=「ビジネスサテライト、日本の演歌」

 以上のように、当時は、それぞれの局が特長もった番組作りが行われていました。

 当時日本テレビは、サッカーやゴルフのスポーツ中継をいち早く取り組んで大成功を収めていました。そんな中、坂田が以前からどうしてもやりたかった箱根駅伝のテレビ放送がなんとテレビ東京に先を越されたのです。1979年正月3日12:00~13:54。スタートから9区までは録画ダイジェスト版で、最終の10区とゴールのシーンを生中継しました。

 視聴率は今ほどではなかったようですがラジオのみで聞いていた東京の人たちは伝統ある箱根駅伝がテレビで放送されたことで大きな反響を得た様でした。その後は、NHKもラジオ放送だけでなく、テレビ放送に大変意欲を燃やしていたそうです。そこで、20年前から箱根駅伝の生中継の企画を温めてきた日テレ坂田にとってこれは、これは、うかうかしていられない状況になってきました。

 それから2年間、坂田は自分の夢の実現に向けて、休日を使って箱根のコースを歩いてみたり、箱根路を走った元選手や関係者を取材したり、学生陸連の理事たちに会い過去の駅伝の様子を聞くなど精力的に動きました。

 坂田は取材していく中でほとんどの人が思い出を話しているうちに目頭を押さえ、タスキを渡すことが出来なかった自分の意気地なさに涙することに直面するのでした。

 大正9年から始まり太平洋戦争をはさんでずっと存続してきた大会であり、調べれば調べるほど興味深い話や、感動的な話なばかりで、箱根駅伝は人々の人生に大きな影響を与えていると確信し、この箱根駅伝の生中継実現に向けて、自分がやらなければならない使命感にかられ、まっしぐらに突き進んでいくことになりました。

 そこで、実現に向けての坂田の悩みは、1区間約20㎞ある距離を1日5区間(5中継所)あるのでマラソン中継の2.5倍の機材と人材が必要になり又、マラソンのゴールのような中継所も5つある。ここでの撮影もしっかりやらなければならない。どんなに頑張っても日本テレビだけでは機材も人も集めようがない。北は北海道から九州沖縄までの各系列テレビ局の応援を頼むしかないと考えました。

 これはそんなに簡単な事ではありません。地方局でもこの正月2日・3日は特に地方スポンサーの地元密着番組が多く、正月ローカル番組は、ほとんどといっていいくらい、地元局で制作され放送されていました。人も機材も余っているわけでもなく、地方局にとっても忙しいときでした。

 この問題を解決するのは、当時の日本テレビ社長「ハイルヒットラーの高木盛道」の一声しかないと思い社長を口説いたと聞いています。

高木社長のひとこと:

  • 各系列局に人と機材の応援を頼むためにこの私(社長の高木)が頭を下げることは良い、しかしこの東京ローカルの箱根駅伝を2日間全国ネットで放送して視聴率が取れるのか?
  • こんなに制作費がかかる番組で、また2日間の放送というとてつもない金額がかかる番組の提供スポンサーは果たしてつくのか?
  • 広告代理店に打診はしているのか?
  • 提供スポンサーの目安はあるのか?

 坂田は高木のやつぎばやの質問攻めにあったそうです。

 最終的にはこの問題はすべて読売広告社1社買い切りサッポロビール冠提供で万事解決しました。

Ⅲ.ローカル局や番組買い切りの裏側のエピソード
①1987年の第63回大会は2日往路の放送時間は7:55~10:25、12:00~13:55 復路は7:55~9:25 12:00~13」55までの4部構成となり往路の3・4区と復路の7・8区は中継が中断されていました。
 
この原因は機材と人が思うように集まらず一部生中継を断念した結果です。翌年の64回大会も3区と8区の中継がなされませんでした。今のように完全生中継になったのは1989年の65回大会からです。

ちなみに、今年の90回大会の放送時間は、
2日往路 1部 7:00~7:50(50分)
     2部 7:50~14:05(6時間15分)
3日復路 1部 7:00~7:50(50分)
     2部 7:50~14:18(6時間28分)
     3部 14:18~15:00(42分)

2日間合計放送時間は15時間05分 日本最長生中継番組です。

Ⅳ.昨年のテレビ制作体制は
 中継ポイント50ゕ所、特に箱根の山は電波が届きづらく、悪天候で、ヘリコが飛べないことも想定してコースと中継基地(NTTの双子無線中継所)の両方が見える駒ヶ岳、明星ヶ岳、久野林道等数か所にカメラ設置)
テレビカメラ81台、移動中継車2台、オートバイ中継車4台、固定中継車12台(スタート・ゴール地点、各中継所に設置)、ヘリコプター3機、実況アナウサー・サブアナウサー20名、スタッフ総勢1,000人オリンピック放送を別にして日本最大規模の放送体制である。

 そのほかいろいろなエピソードがあります。詳しい話は次回話をします。今日はタイトルだけ!

  • 山に寝泊まり事件とおむつの事件。
  • 箱根小涌園宴会場使用にこぎつけるまでと弁当事件
  • 第64回大会(放送開始2年目)濃霧で視界ゼロの状況での生中継はいかに?又、復路で富士登山鉄道の踏切を渡る前に遮断機が下り始め移動中継車が踏切の手前で立ち往生する間に選手が遮断機をすり抜け、中継車選手の姿を終えなかった事件。今は電車が踏切近くで止まって選手が渡りきるまで待っています。その電車から駅伝を応援するというイベント電車までできているそうです。
  • テーマ曲の変更  2008年の第84回大会までのテーマ曲
    オープニング曲は映画「ネバーエンディングストリー」の挿入歌「喜びの飛行」
    エンディングテーマ曲はトミーヤングの歌による「ⅠMust Go」が流されている。
    2009年からは久石譲のオリジナルテーマソング「Runnner Of The Spirit」

 ここに、日本で初めてとなるこの「第63回箱根駅伝」の生放送を1週間後に控え700人のスタッフが気持ちを一つにして戦っている全員に対しての番組総合ディレクターである田中明の決意表明の全文を紹介いたします。

全文

 そして、最後に
 田中綜合ディレクターは第66回大会まで4年間の箱根駅伝の放送を担当しました。
 田中さんが最後の大会が終わって後輩への熱いエールとメッセージを一本の襷に託したのです。聞いてください。
   
プロローグは終わった。

 そして同じくこの箱根駅伝の生中継実現を夢見てともに戦ってきた坂田信久プロデューサーは現場から離れてこんなメッセージを残しています。

   エピローグ

 まだまだ面白い話はあります。今日は時間がなく話が出来なかったのですが、6番7番の話なんてとても面白いですよ。(本人が言っているので間違いありません)。もう1時間以上時間がたってきました。のどもかわいてきていますので、続きは次回に回すとして、最後に、今年の1月に行われた第90回箱根駅伝のハイライトと番組のエンディングシーンを皆さんと一緒に見て終わりにしたいと思います。本日は長い間飽きもせず、ご清聴頂きましてありがとうございました。

平成26年6月にNPO法人東京都中推協にて

箱根駅伝のルールとエピソード

1.出場校と予選会

 出場は前年の大会で10位までに入ったシード校10校と今年10月18日に48校が参加して行われた予選会(1大学12名以内がエントリーできる。全員で、20キロのコースを走り、各大学の上位走者10人の合計タイムが少ないチーム10位までの大学が予選会突破校として本戦の箱根駅伝に出場できる。)突破口10校と関東学生連合の合計21校で争われる。

 今年(2015年大会)の予選会の成績は、①神奈川大 ②國學院大 ③東海大 ④山梨学院大(昨年2区で棄権) ⑤中央学院大 ⑥上武大 ⑦中大(89回目出場 )⑧順天堂大 ⑨城西大 ⑩創価大(初出場)であった。過去に実績のあった古豪⑪東農大と⑫法政大は出場を逃がした。

2.選手エントリー

 1大学1チームで、16名(正選手と補欠選手)以内の選手がエントリーできる。但し、留学生はエントリー2名以内出走1名以内とされている。

 区間エントリーは、正選手として1区から10区まで選手名で、登録する。エントリー変更は4名まで、当日のスタート時間(8:00)の70分前(6:50)までと決められている。区間同志の変更は認められず、補欠選手(6名のうち4名)と4名の正選手との入れ替えのみである(例えば、2区に補欠選手を入れることはできるが、2区と4区の選手を入れ替えることはできない)その意味では、補欠選手はジョーカー的存在であり、そのジョーカーをどこの区間に使うかが勝敗を左右することもある。当て馬的正選手も実際には存在する。

 最近は、どの区間でも走れて実力があり、調子が良い選手やエース級の選手を補欠に回したり、特殊な区間の5区や6区には、複数の選手を用意して戦略的な布陣を強いてくることが多く見られる。

3.涙の途中棄権

 競技者が走行中にケガや疾病により走行困難となり、歩行・立ち止まり・横臥などの行動に移った場合で、本人がなお競技続行の意思があっても、競技運営委員、走路管理者、監督またはコーチの三者の合意により競技を中止させることができる。

 競技の中止の通告は競技運営委員の上げる赤旗による。以前よく言われていた「監督が選手の体に触れたら即失格とする」は明らかに走行を援助した場合であって選手の体に触れて競技を続行するか棄権するかの話をすることは認められている。

 途中棄権した大学は前区間までの記録は公式に認められるが、棄権後はオープン参加として繰り上げスタートし、競技には参加できるが、記録は公式に認められない。

 1979年の55回大会までは途中棄権は、50回以上行われた大会の中でたった3回しかなかったが、1995年の71回大会で19年ぶりに順大が途中棄権した。それ以後、2008年は順大、大東文化大、東海大の3校がそろって途中棄権という前代未聞の大会であった。

 また、スタートしてから早い段階での途中棄権は昨年の山梨学院の2区での棄権のように、東海大と法政が2区で途中棄権をしている。

4.無念の繰り上げスタート

 駅伝独自のルールで、中継所で先頭走者から10分以上(往路の2・3区のスタート中継所と復路のスタート芦ノ湖)と20分以上(往路の4・5区と復路の7・8・9区のスタート中継所)遅れたチームは車両混雑が予想されるため、各中継所審判主任の裁定で前走者が到着しなくても次の走者を出発させることができる。これを「無念の繰り上げスタート」という。

 この繰り上げスタートは自校の伝統あるタスキでなく大会本部で用意した黄色と白色のストライブを使用する為、自校の伝統あるタスキが自分の走りのせいで継がらなかったという自責の念に悩まされた選手も多い。また、棄権した区間後の次走者のスタートは繰り上げ選手と一緒にスタートする。

 尚、繰上げ選手がいないスタート中継所では20分を待たずにスタートさせることがある。 復路芦ノ湖でのスタートは往路の1位から10分以内の大学は順次時差スタートをし、その他の大学は1位の大学が出発してから10分後に一斉スタートをする。

学生三大駅伝及び箱根駅伝の概要

 駅伝観戦の手引きとしてお使いいただくと、二倍楽しめます!

 A4判の見やすい表になっています。印刷してお手元で確認しながら観戦してください。

学生三大駅伝大会

  1. 全日本選抜出雲駅伝(出雲大社~出雲ドーム)
  2. 全日本大学駅伝(熱田神宮~伊勢神宮)
  3. 箱根駅伝(大手町~箱根芦ノ湖)

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